最近、縄文遺跡を巡っていて、
ふと気になって調べていたら、
面白いことが推測が浮かんだので、
記録として書いておきます。
もしからした、新事実!?なんちゃって。
念のために言っておきますが、
私は専門家でもなんでもないですし、
こんなこともあり得るかも!?という発想ですので、
真偽のほどが分からないのはもちろん、
反論いただいても、なんとも返せませんので、
その上で面白がって読んでいただければ幸いです。
************
講師のプロフィールはコチラ
※毎日の晩ご飯メニューとワンポイントアドバイスを配信中
メルマガ登録はコチラで「お気に入り登録」お願いします。
※最新の料理教室の日程はコチラ
※毎日のお弁当の写真はコチラ♪
※料理教室のLINE@始めました!
************
美味しく食べて体質改善!
食と命のシステムを最大限に活かす料理術、
つぶつぶ雑穀料理を青森県弘前市で伝えています。
雑穀と野菜で作る家庭料理教室
たきさんちの高杉多希です。
訪問してくれてありがとうございます。
よく縄文遺跡で言われるのは、
「今は山の中だけれど、当時は海が近かった。」
ということ。
遺跡などに行っても、確かに高い場所が多いですね。
実際のところ、どれくらい海に近かったのか?
どれくらい、海が今よりも高かったのか?
見られる地図とか無いかなぁと思ったら、
ありました!
天下の「国土地理院地図」!!
左上の「地図」をクリックして、
「自分で作る色別標高図」で、
任意の高さで色分けが出来ます!
すごーい!
そこで、この設定にしてみました。
海抜3m以下、
3-6m、
6-9m、
8-12m、
12-30m、
30-50m、
50m以上
です。
50mは、出来心っぽいですが、
のちほど説明します。
そして、これに、
右上の「ツール」の、
「作図・ファイル」で、
「ファイルからデータを読み込み」で、
CVSデータを選択して入力すると、
任意の地点が〇で表示されます。
今回は、海岸線を調べたいので、
のデータに、
青森県の大きな遺跡
*三内丸山遺跡
*小牧野遺跡
などを加えて、
今回は、これを縄文時代の遺跡を、
早期、前期、中期、後期、晩期、で作成しました。
こちらが、早期。
ほとんどが太平洋側にある中、
ぽつんと左上にあるのが、
日本最古の土器が出土した大平山元遺跡。
標高は20m超。
今から16,000年~15,000年前と言われるそうです。
縄文時代の幕開けです。
ちなみに、縄文時代早期は、
12000年~7000年。
Wikipediaによると、
縄文海進(じょうもんかいしん)は、
最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇を指し、
日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり(年速1 - 2センチメートル)、
ピーク時である約6,500年前 - 約6,000年まで上昇が続いた(日本では縄文時代)。
ちなみに、今の海抜から100mの上昇ではなくて、
スタートが今の海抜マイナス120mで、
10,000年以上かけて海面が上昇。
ピーク時には、今の海抜よりも2~3m高くなった、
と言われていますが、この時期はピーク前。
大平山元遺跡は標高20mくらいなので、
その推測が正しければ、
その頃は今よりももっと山の中にあった、
ということになります。
逆に、太平洋側の貝塚は、
ほとんどが縄文時代早期の後半のものなので、
結構、海岸線ギリギリにあったようです。
八戸市の海沿い。
一番濃い青色が、海抜3mのライン。
もうちょっと海が高かったんじゃないかな、とも思えるけど、
そうなると、日ケ久保貝塚は完全に海の中になっちゃいますね。
ちょっと高台に住んでた、って感じでしょうか。
続いて、縄文時代前期。
赤が早期、青が前期。
数も増えましたが、
少し内陸に入り込んだような気がします。
青森市の横っちょの青丸は、
三内丸山遺跡です。
(この頃は、自然遺物だそうです。)
縄文時代前期は、7000年~5500年前。
縄文海進がピークが6,500~6,000年前とすると、
段々と山手に逃げて行った、ともいえると思います。
つがる市の田小屋野貝塚は、
結構攻めた位置にありますが(笑)。
6,000年~3,500年前の遺跡で、
縄文海進のピークが終わった後ですし、
ゴミ捨て場でもありますから、うなづけます。
日本海側は、太平洋側に比べて、
海面の干満も少ないので、
ギリギリも攻めやすかったかもしれませんね。
続いて、縄文中期。
青が前期、緑が中期です。
ちょっと低めの貝塚が無くなり、
中期には、高台のものが残りました。
7000年~5500年前が縄文前期、
5500年~4500年前が縄文中期です。
縄文中期は、比較的安定した気候だったのか、
大きな遺跡が数多く見られます。
三内丸山遺跡も、その一つ。
(緑丸で示されています。)
そして、中期から後期へ。
中期が緑の丸、後期が黄色の丸です。
一気に数が減りました。
後期は、4,500~3,300年前。
とある研究によると、
人口自体は減って無くて、
大きな遺跡から、少人数の小さな集落へ、
低いところから高いところへと、
遺跡がバラけたらしいです。
もし読み取り方が間違ってたらすみません…
でね、この中期から後期に何が起きていたかというと、
*標高が高いところに移動
*大きな遺跡から小さな単位にばらける
*世界規模で気候の大変動
*東北にストーンサークルが出現
*世界規模で気候の大変動
*大きな遺跡から小さな単位にばらける
この2つは、データで裏付けがあるそうです。
失われた長江新石器文明の謎 – 約4200年前の気候変動を海洋堆積物から復元する
縄文時代中期後半の4200年前に、
世界規模で大きな気候変動があって、
急激に寒くなってきたそうです。
繰り返す温暖化と寒冷化 ‐日本の歴史に影響した東京の気候変動‐
エジプト、インダス、中国の大きな文明を崩壊/劣化させた
全球的な4.2ka気候イベント(完新世中期-後期境界)の時期と一致し、
東京湾にもこの気候イベントの影響が及んでいたことが明らかになった。
ボンドイベント4~3の期間における三内丸山遺跡周辺の古気候復元
食糧の単位面積あたりの生産密度は,
人工的に森林に手を加える「半栽培」によるクリの場合,
通常の森林の66倍,弥生時代の「水稲栽培」に至っては400倍にも及ぶ.
三内丸山遺跡で気候最適期を謳歌した時期には,
クリの「半栽培」による高食糧生産密度により,人々は大集落を形成した.
しかし, 2.0℃の寒冷化となった「4.2kaイベント」時には,
夏季アジアモンスーンの変調によりジェット気流の中心軸が南下し,
低緯度域の温暖湿潤な大気が中高緯度に北上することができなかった.
これにより「半栽培」が成立せず,大集落は崩壊し,
人々は再び「狩猟・採取」の生業に戻った.
気候変動によって寒くなったから、
三内丸山遺跡では生活できなくなった…
でも、わざわざ移動しなくっても、
その場所で生活することも出来るのでは?
しかも、その後は、
*標高が高いところに移動
した意味がないですよね。
高いところは寒いですから。
それだと、つじつまが合わない気がする。
で、いろいろ検索している時に見つけた記事。
紀元前1500年ごろ、三陸地方で巨大津波の跡。
宮城県気仙沼市の大谷海岸の海食崖の調査。
海食崖の堆積層の中で特に厚く貞観津波の10倍程度あるので、
超巨大津波の可能性が指摘されている。
ちなみに、貞観(じょうがん)津波とは…
平安時代の貞観11年(西暦869年)に陸奥国多賀城を襲ったとされる巨大津波。
三陸沖で発生した地震規模はマグニチュード8.3以上と推定される巨大地震による。
平安時代の正史《日本三代実録》に記録が残る。
とのこと。
その10倍って…
で、思ったんですよ。
三内丸山、海に沈んだんじゃね?
海に沈んだ三内丸山遺跡を離れて、
高台の小牧野遺跡に移り住んだ…
そして、
*東北にストーンサークルが出現
筋書きとしては、ありそうじゃないです!?
3.11の時は、函館もかなり被害がありました。
それ以上の津波であれば、
青森も無事ではないと思います。
(ゆっくり水位が上がるタイプの津波もありますからね。)
生きてる間に見たことがないような津波に襲われたら、
神に祈りたくなりますよね。
それが、ストーンサークルという形になったのでは…
続いて、
黄色丸が後期、オレンジ丸が晩期です。
後期と晩期は、重なっていません。
六ケ所とかにあった貝塚を津波が襲ったとしたら、
八戸のあたりは無事だった可能性があります。
この辺は、水が来なかったから大丈夫!といった感じで、
大規模なストーンサークルなどの遺物が作られた…
ということもあり得るのではないでしょうか。
3,500年前の津波から、足で移動して、
良い場所を求めて、、、
亀ヶ岡遺跡や大森勝山遺跡なんかも、
3,000年前と縄文晩期も晩期といった遺跡。
大森勝山遺跡の回りは、
貝沢、砂沢、十面沢字浜妻ノ神、糠坪、、、
森田村の方には、妙堂崎、越水、下萢、、、
海にちなんだ貝、砂、
水にぬかるんだような表現である「ヌカ」や「ヤチ」、
岬を表現する「サキ」、、、
私の見立てでは、水位30mの黄色までは、
海水が来たのではないでしょうか。
たとえば、
弘前市のあたりにある、オレンジの〇は、
平川市の旧尾上地区・八幡崎遺跡。
縄文時代晩期の低湿地・泥炭層遺跡。
(中略)平川市の中心部から延びる低台地西端に位置し、遺跡上には八幡宮が鎮座している。
遺跡は上層に奈良時代の集落があり、台地の北側低地に縄文時代晩期の遺物包含層がある。
埼、とは、岬(みさき)のことでは、、、・
そして、こちらは青森市。
浦町、浜田、浜館、八ツ役、金浜、、、
水色のところは、完全に海でした!って感じがします。
で、こちらは青森市の旧・浪岡市内。
浪、沖、萢、沢、、、
ドキッとしませんか!?
続いて、鰺ヶ沢。
浮田町。
浮いた町、、、ぞわわ!!
あくまでも、そんなことも考えられる…
ということですので、
絶対ではないけれど、
原日本語は、縄文時代から続いていると言いますし、
これは、ひょっとすると大発見かも!?
面白いな!と思った方は、
コメントいただけると嬉しいです♪
面白くない!という方は、
黙ってバックしてください(笑)。
今日の晩ご飯↓
コメントをお書きください
山田幸次郎 (火曜日, 21 3月 2023 14:12)
初めまして、こんにちは。
「青森の縄文海進」というキーワードでたどり着きました。
すごく面白いと思います。
私も素人ですが、
お取引先の栃木県(海に面していない県)藤岡の会社の会長さんが
縄文時代この辺は海だったんだという話をしていて興味が湧きました。
標高15mくらいの場所です。
国土地理院地図を使って15mまでを海の色にして同じことをしています。
海面は2~3mの上昇ですが、
風の力と川(洪水)の力で地面も日々上昇していますので、
現在の海抜15mの地点は6千年前は海だった可能性が高いです。
川のあるところは特に地面の堆積が進むので、
関東平野の多いところでは70mの堆積があります。
広島県の例ですが、このことを分かりやすく説明しているURLがあるので紹介します。
http://ww7.enjoy.ne.jp/~tfujise/ohta/delta3.html
これを見ると、標高30mくらいのところまで海だった可能性は十分あると思います。
なぜ、「青森の縄文海進」というワードで調べていたかと言うと、
全国の勝浦という地名の地形を調べていたからです。
全国の勝浦という地名は、三叉(みつまた)の岬が海に突き出ている形をしています。
陸地の形を見ると、三叉の銛(トライデント)の形です。
(銛には「かつ」という読み方があります。)
同じ海岸線を海の形から見ると、両胸の形で福岡県の宗像(胸形)大社のある海岸線の勝浦が有名です。
千葉の勝浦も和歌山の那智勝浦も同じ形です。
弘前市に船水勝浦という地名があるので、
ここも縄文海進の際には同じ形の海岸線のあったところではないかと思い、
調べていました。
ちなみに海の無い県、埼玉県の浦和も
縄文海進の際、海岸線のあった場所です。
曲がった海岸線で浦湾(うらわ)と呼ばれていたと思われます。
地理院地図の機能を使って
縄文海進と国生み神話の関係についての考えを
ツイッターで書いています。
読みにくいですが、もしよろしければご覧ください。
https://twitter.com/chun_myuw/status/1504347334549073925